制度の概要と四大墓地
パステル、素描、水彩、版画、彩色写本などの作品がこの部門に属する。保存上の観点から、パステル以外の作品は常設展示はないが、企画展示の折に公開されることがある。これらの作品はシュリー翼3階(フランス絵画室)の20 - 23室及び41・42・44・45室、グランド・ギャルリ脇の9・10・11室、グランド・ギャルリ西奥の33室などが展示場所にあてられている。レオナルド・ダ・ヴィンチ イザベラ・デステの肖像(黒と赤のチョーク、パステル)1490年頃ジャン・シメオン・シャルダン 自画像(パステル)1775年
その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割され、ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名された。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となった。また、この時期に現代に続くフランス語(古フランス語)の形成が始まった。987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立した。
ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と全く関係がない。ハロウィーンで出てくる幽霊、精霊、魔女などは明らかに非キリスト教的存在である。この祭りの起源は元々ケルト人のドルイド教の祭だっただろうと推定されているが、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタン(ジャックランタン、ジャック・オ・ランターン)を飾るなど、一部の習俗が入ってきている。「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー(καθολική:普遍的)」やラテン語では「カトリクス(Catholicus)」等である。日本ではかつて「天主公教会」とも称された。カトリック教会自身による定義は「教会憲章(Lumen Gentium)」にみられる「ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」という表現にもっともよく表されている。
レオナルド・ダ・ヴィンチ イザベラ・デステの肖像(黒と赤のチョーク、パステル)1490年頃ジャン・シメオン・シャルダン 自画像(パステル)1775年モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール ポンパドゥール夫人(パステル)1755年